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半島の鉄資源などの重要物資を安定して手に入れるためには、交換する物資の質・量が問われた。それらを確保するために各地の首長らが同盟を結んだ。
その話し合いの場でスムーズな議事進行を執り行うためにイワレヒコが議長に選ばれた。彼は有力豪族ではなかったものの、倭王卑弥呼とよばれたアマテラスの血を引き、大和の不世出の偉大な指導者ニギハヤヒの娘の婿でもあり、日向・出雲・大和など各地の豪族からも了解を得られやすかった。 これが後の大王(=首長同盟会議長)のはじまりである。 大王は当初はあくまでも首長同盟会議の議長にすぎなかった。 だが、八代目の孝元議長のときはじめて、それまでの大王が一部例外を除き奈良盆地南部から妻を得ていたのが、北部から正妃を迎える。また、九代目の開化議長(稚日本根子彦大日日)のとき、それまで歴代の大王の宮殿が奈良盆地の南にあったのが、盆地の北方に移る。これらのことから、大王家の勢力圏が次第に広がっていったと推測される。 そして十代目の崇神議長が戸籍調査、租税制度、軍事体制を整えたことをきっかけに政治的実権を得ることに成功。権威が強化される。 とは言うものの、それは連立政権の長という立場でしかなく、他の有力豪族の協力なくしては成り立たないものであった。その権力の実態も、立場において他から一歩ぬきんでることができたというにすぎず、必ずしも圧倒的な権力基盤を築きあげたとはいえなかった。 その後、垂仁議長(11代)と景行議長(12代)は地方の不満分子を平定(なお後者の王子であるヤマトタケルの遠征は侵略戦争ではなく、農業や工業の技術指導を主に、時に同盟への不満分子を取り締まるといった巡視の旅だったと思われる。であればこそ、後世の風土記において「倭建天皇」と呼ばれることにつながったのだろう)。 成務議長(13代)は地方行政システムを整備。 仲哀議長(14代)は各地を歴訪し連立の紐帯を強化しながら熊襲制圧中に死亡(半島情勢が活発化するなか、倭国も権益を得るためにそこに食い込むべきとの考えを持った勢力による暗殺か)。 神功議長と応神議長(15代)は新羅等と戦闘し半島にある程度の勢力基盤を築く。 仁徳議長(16代)、履中議長(17代)、反正議長(18代)、允恭議長(19代)、安康議長(20代)は半島での戦闘を継続する一方、交易も盛んにする。中国王朝への遣使も開始。そうしてこのころ(西暦400年)古墳時代中期(副葬品は刀剣・甲冑・馬具・金銅製装飾具など軍事的。被葬者は武人的性格)に突入。 雄略(21)は大王継承資格のある王族のうち、自分と対立するものを次々に殺害。さらに当時大王家に並ぶ地位を占めていた葛城氏を倒して王位につく。 また吉備上道臣田狭を殺し、その妻の葛城氏出身の毛媛を奪う。そうすることで、専制権力の樹立をめざす雄略に抗し葛城・吉備氏が結ぼうとした政治的連合をくずした。 実質的な大王はこの雄略からと言ってよい。 by のぞみまつき |
by sironekonomiya
| 2005-03-24 21:12
| 古墳時代ワールドガイド
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